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上川地方は、14世紀前後にアイヌ文化が形成されアイヌの人たちの世界であった。18世紀頃、北海道の重要性に注目した徳川幕府は、この地に多くの探検家を送り込み明治2年に北海道を統括する開拓使が設けられ、北海道と改称して、11国86郡の行政区画が設定され、上川盆地一体は石狩国上川郡となった。現在の旭川という地名の由来については、忠別川のアイヌ語で「チュプ・ペッ」を語源にしている説がよく知られている。「チュプ」は「日」の、「ペッ」は川の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳して名付けたと言われているが、定かではない。本市は、明治23年9月20日に上川郡に初めて旭川村、永山村、神居村の3村が置かれ、明治24年から開発の屯田兵が入植し、旭川は上川の中心として開拓が進められた。明治33年には旭川村から旭川町に改称され産業、経済の基盤が成立し、さらに先人たちの偉大な努力により大正11年8月市制施行、昭和30年から近隣町村との合併が進み、昭和45年に人口30万人、昭和58年には人口36万人を超え、北海道では札幌に次ぐ第2の都市となった。旭川は川の街とも言われ、橋が多いことでも有名である・・代表的な旭橋は、1932年現『旭橋』完成、色はフェイサイドグリーン 昭和2年、当時の北海道大学工学部長吉町太郎一博士に設計指導を依頼。吉町博士は「旭川のシンボルとなるような橋を」と考えて、内務省と協議して橋梁形式を決定した。昭和7年11月、開拓功労者である矢島宇八一家三夫婦による渡橋式が行われ、その後日章小学校で盛大な竣工祝賀会が開かれた。橋の正面には第七師団長佐藤巳之助中将の筆になる「誠」という文字を中心に、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の軍人勅諭網領が書かれた旭日章が高く掲げられた。電車が橋の上を通過する時、車掌は「気をつけ!」と号令をかけたという。軍都旭川を象徴する橋であった。 |
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